江戸は川の町 江戸は、「百歩、歩けば川に当たる」と云われたほどの川の町である。今の銀座界隈は、東洋のヴェニスと形容されたほど水に縁の深い場所であった。江戸には大城郭を守る深堀、運河、灌漑水、上水、など大小様々な河川が流れている。天然の川の流れを変え、運河を造ること七十年。川は、庶民の生活に潤いを与え、経済活動のルートとなり、遊興の場も提供している。江戸の場合、川、堀、運河の造成は、都市造りの基本。それらは、洪水防禦、軍事的防衛手段としても考慮されている。 江戸の地勢東京湾の変遷 江戸の川を語る前に、東京湾の過去の変遷について述べてみよう。東京湾は、生きている。万年周期で海進、海退を繰り返している。温暖化の時には、水位が上がり海進。つまり海は陸に向かって広がり、寒冷期には、水位が下がり、海退し、陸が現れてくる。 ◎十万年前 温暖期の、今から十万年前には、関東平野は、ほとんど浅い海。無論、江戸一帯は、海の底であった。東京湾は埼玉の先まで広がり、関東の陸地は、まるで海に浮かぶ島繋ぎの様。房総も、三浦半島も細い島を感じさせる。この時、江東区「両国」は、海の只中にある。 ◎五万年〜二万年前 これが寒冷化(最終氷期)を迎えた五〜六万年前だと、今度は、海退期で海は引き、海面の高さは、現在よりも下がり、平野は陸地化。扇状地が形成され、「両国」は完全に陸地の上。東京湾はうんと縮小され、いわゆる小さな古東京湾と呼ばれるようになる。この傾向がずっと続き、今から二万年前には、寒冷化は、頂点に達し、この時、海面は現在より百メートル以上も低くなり、東京湾は消滅し、陸地と化す。 ◎縄文期(五千前から) その後は、次第に温暖化となり、再び東京湾は、海進期を迎える。人々が棲みついた全盛期、つまり、縄文前期(五千〜六千年前)には、再び温暖化の波に乗って、東京湾は海進する。海の水位は、現在より数メートルも上昇し、陸地をのみ込み、いわば、関東平野全域、埼玉県の北まで、大小の入り江となって、入り込んでいる。そして、いわゆる、奥東京湾を形成するようになる。この時、東京湾も拡大し、「両国」の処は再び、海の底(陸地沿い)に沈んでいる。 ■図1「江戸周辺地勢の変化東京湾の変貌」 この期、つまり縄文時代の海岸線を知るには、縄文人が残した無数の貝塚を繋げれば良い。発見された貝塚は、点々と埼玉の奥地にまで広がっている。そして、縄文後期から再び海退現象が始まり、関東北まで入り込んだ湾は、徐々に、ギザギザの入り江状となり、陸地化。現在の東京湾に近い形となる。 東京湾の海退にともなって陸地が、広がり、加えて、富士山、箱根山を初めとする、活火山の噴火が長い間続く。降り積もった火山灰と若干の隆地が台地を形成する。そして、あちこちから、水の流れが広がった湿地低地に向かい、つまり川となって東京湾に注ぐようになる。当初、東京湾に注ぐ、川の流れは、急峻である。そのため、流れは、台地を削り、谷を造ることになる。押し流された土砂は、東京湾に流れ込み、さらに州を形成し、さらに陸地は、広がって行く。 縄文人の生活環境 この地勢の変化に従って、人の営みを見ると、現在の東京都にあたる地域に人がやってきたのは、約三万年前の旧石器時代。そして、縄文時代には、人々は、魚介類が豊富に獲れる海岸沿い、あるいは河川沿いの入り江に沿って暮らし、ある意味で安定した、定住生活を営む。例えば、目黒川が国道二四六と接する池尻大橋近くに縄文公園がある。そこに描かれている縄文人の生活風景。家宅が再現され、当時の人々の生活を描く。切り立つ崖下は、海で、波が洗っている。小舟が浮かび、人々は、魚介類を獲る。彼等のはるか後方では、火山が噴火している。また、今の京浜東北線は、正に縄文時の海岸線を示し、北に向かって線沿いに、多数の貝塚が発見されている。有名な大森貝塚から、浦和の先まで。京浜東北線のラインは、崖でその先は海だったのである。ちなみに、現在の皇居は、この時、海岸縁(後の日比谷入り江)に位置している。 縄文期の江戸周囲の状況。藤沢、茅ヶ崎、平塚辺りは、すっぽり海の下。多摩丘陵を挟んで海水は青梅まで達し、埼玉の大宮台地は取り残された島状を呈し、埼玉県の久喜一帯も概ね海。入り江はさらに北まで広がっている。房総半島は細長く、茨城は大半が海と言って良く、複雑に入り組んだ入り江が土浦から栃木に向かって伸びている。 しかし、縄文後期からの海退が始まると漁労活動が大打撃を受け、噴火の影響もあり、人口は次第に減る。南関東は、特に縄文文化が栄えた処。したがって、水稲耕作と鉄器使用を骨子とする弥生文化は、西南地域より大幅に遅れ、弥生中期の後半、紀元一世紀頃になって初めて、本格的な農耕社会が成立する。 台地、谷、川の関係 江戸の中心は、武蔵野台地。その下部が、山の手台地。概ねJR山手線に囲まれた台地で、五つから成り、各台地間に急峻な水が流れ、台地を削り、谷を造って、谷底を湾に向かって、川は流れる。具体的には、「上野台地」と「本郷台地」の間に谷田川・石神井川、本郷台地と目白台地の間に小石川が流れているといった案配である。江戸は坂が多い。これは、台地と谷の境目部分の残滓でもある。武蔵野台地と云ってもそれほど高くはなく、三十〜百五十メートル。急峻な川は土砂を運び、州を形成し、次第に湿地帯の陸地を広げていく。こうした地勢の上に、大都市、江戸が、誕生するのである。 家康、江戸入府 家康が入府した一五九〇年、江戸の地勢はどのようになっていたのであろうか。まず、海岸線。東京湾は現在よりずっと内陸に食い込んでいる。中央に島が突出。これを江戸前島という。今の東京駅から新橋までの島。当然ながら、左右は海で、この島の左が日比谷入り江。右側が江戸湊。 日比谷入り江の北端に、平川が流れ込む(一橋の処)。そこから、日比谷入り江を品川に向かって海岸沿いに降りて行く。まず、後の江戸城一帯を割って入る、千鳥ヶ淵川の河口に小さな入り江。ついで霞ヶ関低台地の下、江戸期の溜池と繋がる汐留川河口入り江。そして、増上寺の南を流れる古川の、大きく抉り込んだ入り江。さらに南に立会川の入り江。目黒川が流れ込む大きな入り江、品川湊。武蔵野台地は、幾つにも別れて襞状に南に展開。武蔵野台地の東端、つまり、江戸前島の上、本郷台地・上野台地から東全域は低地・湿地帯が連なる。本郷と上野台地の間には、石神井川が、途中、お玉ケ池とつながり、江戸湊に流れている。それからさらに東は、自然堤防により陸化した低地(浅草)。そして隅田川の河口域。隅田川の河口域は、今より川幅が広く、少し蛇行している。この川の東側には、州から陸化した低湿地が広がる(両国、深川一帯)。そのずっと南に、海の孤島のようにぽつんと浮かんでいる、佃島。さらに東に行くと、古利根川(中川)や、利根川(江戸川)が東京湾に流れ込んでいる。 ■図2:家康江戸入府時の地勢図 このような地勢の時に江戸に来た、家康は、武蔵野低台地を海寄りから切り崩し、低湿地を埋め、海を埋め、人が住める土地を広げ、東京湾に流れ込む、急峻の流れを変え、川を巧みに利用し、広大な江戸城を囲む、幾重もの運河を造り、巨大な水の都を造成していくのである。この一大都市造成工事を、後に続く、歴代の将軍が継続。有能な家臣団が推進。完成までに、結局、七十年もの歳月を費やす。大都市、江戸の誕生。 江戸の川(運河を含め)の成立状況。そして、このようにしてできた川を、江戸時代人になって、周りの景観を想像しながら歩く。これが本稿の目的である。 【参考文献】 「川と水辺の辞典」鈴木理生 柏書房 「江戸の川、東京の川」鈴木理生 井上書院 「東京の地理がわかる事典」鈴木理生 日本実業出版社 「江戸・東京千年地図帳」菅野俊輔 別冊宝島 他